或るニートのブログ ~映画と絵画の日々~

或るニートの一生~絵画と映画の寸評と鑑賞~

或るニートの一生~映画・絵画~

映画「ベティ・ブルー」退廃した性欲の彷徨。

f:id:yvonne63ino3:20191107061746j:plain

16歳のとき、付き合っていた女が突然狂いだし、筆者の家の門前で罵詈雑言をまくしたて、ついには家に侵入し、台所から包丁をつかんでこちらに向かってきた。武道を嗜んでいたので怖くはなかったが、彼女が不憫に思えた。もうコイツとはうまくいかないな、と思った。

そんな経験値があって鑑賞した「ベティ・ブルー」

フランスのある地方のの海岸べりの驕奢なコテージが立ち並ぶ。ここでゾルグはオーナーから依頼を受けて雑用を主たる仕事としていた。そこへ町のレストランの給仕を逃げ出したばかりのベティが現れる。ふたりはゾルグのコテージで朝晩を問わずディープな抱擁遊戯を満喫していた。その激しさはまだ十代だった筆者にはちと強烈すぎた思い出がある。だいいちモザイクが多すぎた。

ゾルグはオーナーから「女を連れ込むなら、コテージ500棟すべてペンキを塗り替えろ」とべらぼうなことを言われ、しぶしぶ屈服する。ただしこの500棟はベティには内緒だ。翌日、清々しい朝を迎え、ペンキ塗りをはじめた二人。そして一軒塗り終えるとポラロイドカメラでツーショット撮影。ところがオーナーが来て残り全部も塗ることを伝えられたベティは癇癪をおこす。オーナーの愛車にピンク色のペンキを浴びせ、果ては家財道具一切をコテージから放り投げ、仕上げにランプで火をつけた。燃え上がるコテージを身ながらゾルグももはや笑うより仕方なかった。ただひとつ、ゾルグの書いてきた小説を携えパリにやってきた。

ベティはゾルグの文才の最初の理解者だ。ふたりはベティの友人リザとその彼氏の経営するピザ屋「トンボリ」で働くようになる。しかしここでも注文の悪い客をフォークで刺したりとベティはすこぶる危険な存在者だった。そんなベティもゾルグの小説を夜ごとタイピングしてパリ中の編集者に持ち掛けた。が、帰ってくる批評は辛辣だった。

やがて。エディの母親が亡くなり、家業にしていたピアノ店をゾルグとベティは任される。そんな折りしもベティは妊娠をほのめかす。ベティもゾルグも喜んだ。二人に子供が授かった、と。


妊娠の結果は陰性だった。このあたりからベティの心象風景は暗い雲に覆われた。そんなある日、仕事帰りのゾルグは警察車両が家の方から走り去るのを見て悪いちょっかん予感を感じた。すぐに部屋へ戻ってみると一面血だらけ。ベティは自分の右目をえぐり取り病院に運ばれたと聞く。

病床でベティは手足を固定され、飲みきれないほどの処方薬で昏睡していた。ゾルグは医者に不信感を抱きつつ、ある夜、女装姿で彼女の見舞いに赴いた。そして愛する恋人の顔に枕で押し当て窒息死させた。窒息する寸前のベティの体躯が海老ぞりに踊り、その後パリの街並みを歩いて帰るゾルグの後ろ姿が印象的だった。


今はゾルグただ一人。テーブルを前に原稿を執筆している。ベティの尽力の末、ある出版社がかれと契約を結んしでくれたのだ。コテージの雑役夫から小説家になった。ベティの代わりに白い飼い猫が囁いた。


「書いてるの?」とベティの声。

「考えているのだよ」とゾルグ。

激情のものがたりは静かに幕を閉じた。

映画「カッコーの巣の上で」往年のメンヘラたちに愛の手を。

f:id:yvonne63ino3:20191106075406j:plain

淫行罪で刑務所に入れられ懲役を食らっていたマクマーフィは、所内で問題を起こして精神病棟に措置入院させられる。そこは日本でいえばかつての宇都宮病院のようなところであった。権力者が病院であれば、それに対峙するのは患者たち。マクマーフィは懸命になって病院の管理体制に食い下がる。その権力者のシンボルが看護婦長。患者たちを単なる生き物としか見ていない怜悧な態度で任務を遂行する。

ある日、レクリエーションの最中にマクマーフィはワールドシリーズを観たいと提案するも多数決でボツ。婦長の意向は他の患者たちにも影響力と無言の圧力を敷いていた。自由をより望んでいたマクマーフィは患者たちを引き連れバスに乗り、釣りに行く。このシーンがいかにも自由感が横溢した名シーンの一部になって残っている。だが、こんなことさえ病院という権力者側からは疎んじられ、懲罰の対象と化す。

精神科病院なる権力者とそれに抗えない患者たち。マクマーフィは詐病でこそあれ患者の一人として員数内に属している。筆者も三か月ほど、まあ緩い精神科病棟に入院したことがあるが、ちょっとした患者の不手際により。閉鎖病棟に入れられてしまう機会には何度も遭遇した。

チーフは聾唖(ろうあ)者で通っていたが、マクマーフィにだけは実はそうじゃなく、耳も聞こえれば口も利けると打ち明けた。ふたりだけの内緒ごとである。ほかにビリー。かれはクリスマスパーティーの晩にマクマーフィの呼んだ女の子とエッチをするが、その事実が院内で漏れ、やがて自死にとつながる。

大男のチーフは次第にマクマーフィに精神的依存を示すようになる。が、マクマーフィは前のクリスマスパーティの一件でロボトミー手術を受けさせられるようになり、チーフの問いかけにも覚束ない体となる。そんなマクマーフィを楽にさせようとチーフは枕でマクマーフィの口を覆い窒息死させる。そして洗面台か何か大きなものを持ち上げて窓を割り院外へと逃亡する。

バスで釣りに出かけた時のジャックニコルソンの目の輝きが、三十年以上たった筆者の脳裏にはいまだ残影として保たれている。自由は何かから逃げることだとは一概には言えない。それでも、権力者に立ち向かうことが不利となる場合には「逃げ」も一つの選択肢となろう。冷酷な精神病棟での体験は知るものをしてのみ理解可能となる。

 

 

映画「ベニスに死す」美醜の贋作。

 


125
美しいとしか表現できない、ヴィヨルン・アンドレセン。時は1911年のベニス。一人の老作曲家にして指揮者のグスタク・フォン・アッシェンバッハもこの水の都に羽を休める。そんなある日、アッシェンバッハはポーランド人の母子たちの中にひときわ美しいタジオの容姿にくぎ付けにされる。かれは夜の屋外食堂でバンジョーか何かを弾く不細工な演奏家とタジオを比較して憤怒にかられる。

この美少年ひとめぼれするアッシェンバッハはコレラの蔓延するこの都市を後にしようとするが荷物がスイスに届けられた不備によりベニスに滞在する。これが実はアッシェンバッハにして災い転じてなんとやら。タジオの身近にいられることで幸いとなる。かれは常にタジオを憧憬し、タジオの周囲・行動に気をめぐらす。いつしかこの初老の作曲家は幻想の中でタジオの愛人と化していた。

疫病は静かにこの都市ベニスに忍び込んでいた。いつしかアッシェンバッハも罹患する。それでもタジオ見たさに海に出かける。毛染めと白粉をして若作りしながらだ。マーラーの「アダージョ」が流れる海辺のラストシーン。タジオもアッシェンバッハからの求愛にこたえるようにその肢体を海辺にくねらせる。かくしてアッシェンバッハはタジオに向かってその存在をアピールしようと懸命になるが、息絶える。毛染め粉が額に轍を引く。タジオという美は手に届かないところで逞しく成長していた。

タジオはビヨルン・アンドレセン以外には考えられない。筆者は中学生のころにトーマス・マンの原作に触れたが、文豪マンにしたってまさかこんな美少年は想像だにしていなかっただろう。原作でアッシェンバッハは小説家となっていたが、映画の中では音楽家。すでにビィスコンティの映画観は原作を凌駕しているとしか言えない。原作を読まずに映画だけを直視しろとでも言いたくなる。ちなみにオーディション短編映画「タジオを求めて」なるビデオも存在する。

映画「真夜中のカーボーイ」

 

f:id:yvonne63ino3:20191104093912j:plain


 

ジョーは生粋なおばあちゃん子だった。おばあちゃんにはウッジィ・ナイルズという情人がいた。ジョーはかつて恋人をレイプされたつらい経験の持ち主で、映画の隅々にその片鱗が描写されている。かれは一年発起、地元レストランの皿洗いを辞し、ニューヨークでの男妾をするべくカーボーイ姿で高速バスに揺られた。
テキサスの田舎者から見えたニューヨークは夢幻の花だった。かれはホテルに部屋を借り、そこを足場にカモになる女性を物色した。…現実は厳しい。ようやく見つけた初老の婦人と一線を交えるも、終わると忙しげに愛人宅へ行くといって、逆にジョーから金銭をむしり取る。そんな折、バーでラッツォ・リゾなるぴっこ足を引いた小男に出会う。ニューヨークでは一人ぼっちだったジョーはたちまちラッツォを相棒に男娼を始める。
一見順風満帆に見えたマネージャーの起用だったが、ラッツォはジョーに男ほ紹介する。怒ったジョーはニューヨーク中をラッツォを探して歩き回る。と、そんなころ合いにバーのカウンターに座るラッツォを見つける。一瞬旧友に出会ったときの喜びの笑顔を見せたジョーだったがとみに表情をこわばらせる。すでにホテルも追い出され切羽詰まっていたジョー。ラッツォは自宅に招い入れた。廃墟となり取り壊し目前となったアパートだった。ラッッォのからだはすでに病魔に取りつかれ、せき込んでばかり.。それでもジョーにとってはありがたい住みかとなった。
そんなある日、バーにいた二人のもとへヘンゼルとグレーテルと名乗るヒッピー風の男女が現れパーティーに誘われた。行ってみるとアンダーバーで、麻薬やサイケデリックなムードに包まれた異様な空間だった。ジョーはマリワナを吸い、ラッツォはポケットというポケットに料理を詰め入れた。ビジュアル的にも音楽的にも幻想に満ちたコアなシーン・背景だった。
ジョンはここでショートカットの一人の女に見いだされる。二人は彼女のマンションに行き体をまみえるが、ジョーがストレスからかエレクトしないる慰める女。やがて二人はクロスワードパズルに興じる。としてイン。ジョーの初仕事は成就した。
一方でラッツォはいよいよ病魔に体を疲弊させられていた。「フロリダに行きたい」ともらすラッツォ。すでに友情が芽生えていた。ジョーはラッツォのために男色も厭わなかった。ゲイの学生、出張中の中年男。この男からカネをむしり取り、ラッツォを連れてフロリダ行きのバスに乗る。
テキサスとも、ニューヨークとも違う開放感あふれた町。バスの最後部に乗車した二人。到着間近で尿を漏らしてしまうラッツォ。いやな顔一つせずスーパーで替えの下着を買ってくるジョー。まるで二人は恋人同士にさえ見える。そして。バスが停留場にさしかかって息絶えるラッツォ。医師がきて「仏の目をつむらしてやりな」と述べて死体は簡易処理される。トラウマと衝動がジョーに与えた代償に冷たくなった一人の男性の遺骸が提示された。そしてハーモニカ音楽が、それらをかき消すように流れ出す。

 

映画「黒薔薇昇天」エロ事師が語る。

f:id:yvonne63ino3:20191103090748j:plain


「さる業界の人々」なる南辛坊の著作がある。ビニ本時代真っただ中のカメラマン、編集者、またはそれらを掛け持ちに生業にいそしむ経営者。桜田門との確執をたんたんと如実に描いた秀作である。はたして、エロ業界に生息する人間は、私を含めて国民の何パーセントくらい存在するのか? とにかく、ヘタレAV監督をしていた筆者の感想だが「エロは疲れる」というのが正直なところである。

世間の男衆の中にはアダルトの世界にあこがれる面々があまたいる。が、口だけ男優や能書き監督なる小市民がそのほとんどを占めている。話だけ盛り上がって、実際撮影に臨むべくもなく市井にうずもれるのが関の山である。

愚痴はさておき。和歌山の海岸でロケハンを組んだ男女五人。ブルーフィルムの撮影中のメイ子はいつもと様子が違う。聞いてみると男優の一との間に子を身籠ったという。しかたなく一団は大阪に戻る。監督の十三は根っからの色事師でエロテープの制作・販売もしていた。まるで絵画を描いては売り、AVを撮影監督男優出荷までこなしていた過去の自分に置き換えたくなる立ち位置だ。エロテープといっても動物の鳴き声や大相撲の勝利力士の息遣いを録音・編集したいかさまだった。が、ある歯科医での診察中、いつも待合室で気になっていたアラサーの着物美人に目を付けた十三は、歯科医とこの幾代との密会を録音することに成功する。さらに私立探偵扮して幾代を部屋に招き入れる。幾代はある大金持ちの二号だった。

十三は燃えた。とにかく燃えた。幾代を抱きしめ感部に吸い付いた。と、そこに隠れていた安さんがキャメラを抱えて飛び入りする。公開するブルーフィルムのクランクインだ。さらにメイ子の亭主で男優の一も混じり混戦状態となる。幾代は十三を睥睨したが撮影は一のテクニックでガンガン盛り上がっていく。現場に居合わしたメイ子は「一ちゃん、行ったらアカンでぇ」と嫉妬心を燃やす。珠玉の美女・幾代を誰にもとられたくなくって来た十三も同じ。嫉妬心がその脆弱な肉体に宿り、一から幾代ほ奪い抱擁する。幾代はアクメに達した。そして箏を終えた十三はうなだれながらこう託つ「わいはまだ修行が足りん」。岸田森の怪優ぶりに度肝を抜かされること間違いなしの、大阪発エロ事師大合戦ゲームをここに見た。

警察の目がまだ厳しかった時代の中で、粗製乱造されたブルーフィルムやエロテープ。ついこないだまで身近にあった供物に思えるのは筆者が年を取ったせいか。差し迫る初老にただ怖気づいている昨今である。

映画「他人のそら似」喜劇は悲劇

f:id:yvonne63ino3:20191102114014j:plain

中学生のころ、ブルース・リーのそっくりさんを見た。ブルースのファンイベントでのことだ。一瞬ちょっとすれ違っただけなので、ディテールまでは判然としなかったが、確かにブルースに似ていたし、オーラがあった。そして強そうに見えた。
フランス映画界の重鎮ミッシェル・ブランは最近、トラブルメーカーとなっていた。というのもシャルロット・ゲンズブールにちょっかいを出したり、二十年来の女友達をレイプしたりと…。その強姦罪はアリバイを握っていたキャロル・ブーケが何とか立証しミッシェルは釈放された。が、波乱はこれから起こる。
近ごろ様子のおかしいミッシェルは精神科の扉をノックした。心身症的なのでと、医師から田舎での静養を進められる。嫌がるミッシェルを腕づくで自分の別荘へ手引きしてくれるキャロルめブーケには男気さえうかがわれた。そしてこの一連のスキャンダルの真相はその別荘にて詳らかにされた。「ミッシェル・ブラン来店」と新聞の広告欄に見たスーパーマーケットの文言だ。
さっそく、ミッシェルはその偽物を懲らしめてやろうと開催所のスーパーマーケットの裏口で待機する。が、あまりにも情けないその偽物の営業内容に愕然としてしまう。懲らしめてやろうとして偽物を追いかけるミッシェル。ここは一人二役。ある意味偽物が本物を追いかけている後の伏線上につながるシチュエーションだ。ミッシェルはここで偽物の落とした手帳を収穫する。
キャロル・ブーケを連れて偽物の自宅にたどり着く。しかしここでもとんだ欺瞞がひしめいていた。ミッシェルの偽物のお母さんも、なんと息子がホントのミッシェルだと信じ込み、せがれを自慢に思っていたのだった。もうこの辺になるとどっちが本物か偽物かわからなくなってくる。この偽物宅の近所には半身不随になって久しい男がベッド横臥していた。すると彼の母親がキャロル・ブーケが近所に来ていると知り彼女に是非とも息子にあってもらいたいと懇願される。慈悲心のあるキャロルはさっそく病床を訪ねる。すると男は滅茶苦茶興奮して、立ち上がり、その上エレクトまでしてしまう始末でキャロルに迫る。逃げるキャロル。追いかける男。息子の病が治ったと喜ぶ母親。
一方。偽物に対峙したミッシェルは偽物から「面倒な仕事は俺が引き受ける」と和解案を提示され了承する。それでも偽物は破廉恥な行為をやめたりしない。ある時本物を乗せたキャロルの車の中でふたりが口論となり、車外に放り出される。しかし気を取り直したキャロルはふたたび彼を助手席に導く。そっちが偽物だとも知らずに。
もうヤケになった本物は宝飾店に押し入り強盗まがいのことをして、偽物のイメージ損傷に躍起になる。この際もキャロルの説得でその場は落ち着き、本物は警察の手へ。
出所したミッシェルはそっくりさんのマネージメントをする芸能プロダクションに入る。そんな数いるそっくりさんの中に名優フィリップ・ノワレが混じっていた。フィリップはそこでミッシェルに向かい「私もあなたと同じようにしてここへたどり着いた」と本音を吐露。そして現今のフランス映画界を愚痴る。得心したミッシェルは「これから一緒に地方巡業でもしよう」と同意を求める。かくして二人の数奇な運命は喜劇としては洒落にならない様相を呈する。フランス映画界を巻き込んだ本格的なコメディ作品。